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日本の教育制度の犠牲者とでもいいましょうか。落第(原級留置)のない(本当は校長裁量で可能)小・中学校では、その子が在籍する学年の教科内容を理解・習熟していなくても自動的に進級していきます。確かに「落第で一つ年下の子と同級生になる」という屈辱感を愛らしい子どもに味わわせなくても済む、親心あふれる・心優しいシステムとも言えるでしょう。果たして、当該学年の学習内容を理解してない子を次の学年に進級させて、もっと難しい内容の授業に付き合わせる・・・。その結果が招くものは? それは、子どもの「勉強嫌い」「自信喪失」「自分は出来ない子だ,という刷り込み」です。
世界に目を向けるとドイツ・フランス・アメリカなど欧米諸国、中国やインドなど成長著しいアジア諸国と、小・中学生でも「落第制度」、その逆の「飛び級制度」がある国はたくさん存在します。そして、それらの国々に共通するのは、「出来る子は国を引っ張る将来のリーダーとしてしっかり伸ばす(育てる)」、「そうでない子はその子の "わかった" や "出来た" の知的満足感のため、理解するまで(もう一年同じ学年をさせてでも)しっかり面倒見る=それがその子の権利」という国家の姿勢です。
意外でしょうが、実は日本も以前はそうでした。今日のように、「わかっている子もわかっていない子もみんな平等に進級。それが子どもの人権!」などと妙な平等主義が生まれたのは戦後の民主改革の中でのことです。
日本のこの教育制度が21世紀の今、成功しているのかどうかはここでは触れないこととして、高校9年、中学9年の教職生活を元にいえば、分数や少数、数学以前の算数がわかっていない中学生、恐ろしく国語力の無い中学生は現実にたくさんいます。
ただ現場の感覚からすると、学力が低いこと、それ自体が問題ではないのです・・・。
現状を打破したい、夢をつかむために学力を上げたい、そういった本人の意欲や情熱があれば、熱意と指導力のある教師との二人三脚で、その子は絶対に伸びます。本や映画にもなった『ビリギャル』がその例でしょう。
最大の問題は、長年で積み重なった「勉強嫌い」「自信喪失」「自分は出来ない子だ,というネガティブなレッテル貼り」が故に、その子本人が学ぶ意欲さえ失っている、ということなのです。つまり低学力が問題なのではなく、「学習意欲が低いこと」=「低学欲」が問題なのです。それが私が言う「苦しむ中学生」です。
わかっていない子が、わかっている子と同じようにところてん式に小学校を卒業させられ、中学生になる。そこでは学習の進度も深度も小学校時代より格段にレベルアップしていく・・・。毎日毎日学校に通うたびにわからないことが積み重なる・・・。学欲がわかないのも無理はありません。小学校の分数でつまずいたまま中学校で二次関数なんてやっているんですから。
では、新しく習い始める英語なら、みんな成績は同じように伸びていくか? 他の教科はサッパリなのに英語だけはズバ抜けて出来る?・・・そうでないことは皆様にはお分かりだと思います。個々人の「学欲」は、授業態度・取り組み姿勢(気構え)・家庭学習量の全てに相関関係を持ち、出来る子と出来ない子は、「初めて学ぶこと」に対してさえも歴然と差が出てくるのです。それが進学する高校選択をも左右していくのです。
「学力」は本人の意欲と教師の指導力でどれだけでも(奇跡的なほど)伸びますが、「学欲」は本人の心に灯がともるのを待つしかありません。そして大抵、点火しないまま、その子なりの我慢=努力をして、その子なりの進学先を得て、「無事」に中学を卒業していきます・・・。残念なことです。
教育の現場を知らないで、「金八先生」のようなフィクションで自分なりの理想教育論を膨らませた大人や、何でも学校のせいにするモンスターペアレントなら、「子ども達に勉強の意欲を持たせるのが教師だろう!」とお怒りになるでしょうか。ですが、教師は万能の神ではありません。それは並大抵のことではなく、仮にひと教科でそれが出来ても、それが全教科に波及し、ひいては小学生の頃の未理解内容まで一気に理解できるようになる・・・そんな一発逆転代打満塁ホームランはなかなか起きないことをご理解下さい。砂丘に水を染み込ませることは出来ますが、石に染み込ませることはたやすく出来ることではないのです。ですから、石頭(いしあたま)になる前、が勝負なのです。
国際的な順位が上がった下がったと度々話題になるPISA(国際学習到達度調査)を統括するOECD事務総長で教育政策特別顧問のシュライヒャー氏が、日本の教育の課題は何かと問われて答えた、「一人一人の生徒の学びへのモチベーションを上げること。これが他国よりも日本は低い」。現場感覚として本当にその通りだと思います。
学力の高い子と低い子では、どこが違うのか。授業態度やテスト前の準備などに違いがあるのは当然として、学校生活から具体的に列挙してみましょう。
忘れ物をするorしない。文字が丁寧or乱雑。板書をノートに取るのが早いor遅い。移動教室に遅れないor遅れる。チャイム席を守るor守らない。宿題をしてくるorしてこない(学校で友達のを写すのも)。自習が出来るor出来ない(自習時間を自由時間と勘違い)。学校の配布物を親に見せるor見せない。プリントをきちんと整理できるor出来ない。授業に集中できるor出来ない。指示を聞けるor聞き漏らす。「今」やることが何かを判断できるor出来ない。一度で言われたことを理解するor出来ない(数分後に同じことを質問したりする)などなど、きりがありません。勿論、ここに挙げたすべてを身につけた、そんな「良い子」は滅多にいません。が、なるべく多くを兼ね備えている生徒は、やはり「学力の高い子」が多いですね。
「ノート作り」に全力を出して成績はパッとしない子も多いです。「ノート作り」は「作業」であって、テストではノートに書かれた知識を「活用」出来なければいけませんからね。
それから、勉強中にカラフルなペンをとっかえひっかえ使う子もいます。ショッピングのようにあれこれ選び迷うのが楽しいのでしょうか、やはり成績はパッとしません。出来る子は3色ぐらいしか使いませんから。
また、先生が説明しているときは当然としても、練習問題やプリントを解いている時でさえも、先生が話しを始めるとサッと顔を上げて「聞く姿勢」に入る子は成績もいいですね。大事なことは聞き漏らさないぞ、という姿勢です。それが先生のたわいも無い雑談であっても、その子にとってはその日の授業を脳に印象付ける一場面になるのでしょうね。
言うまでもないことですが、運動が出来るとか、友達が多いとか、明るく優しいとか、校則を守るとかいったことはまた別問題ですよ。
以上のように、高学力の生徒・低学力の生徒、さもありなんという授業態度・学校生活な訳です。さて、実は教育現場で感じる不思議なことがありますのでここでそれを紹介します。
それは、学力の四極化という点です。従来、「学力」の二極化という問題が議論されてきましたが、近年、そこに学習意欲=「学欲」が複雑に絡んできているようなのです。つまり、「高学力高学欲」と「高学力低学欲」、「低学力高学欲」と「低学力低学欲」という四極化です。
ここでは高学力の子を例に説明します。保護者としては「えっ、成績が良いんでしょ?学習意欲=学欲があるから学力も高いんじゃないの?」と思われるでしょう。これは教育現場に立たないとピンと来ないと思いますので少し具体的に言います。
高学力の生徒の第一類型は、「知らなかったことを分かるのが好き」「わからないことをそのままにしておくのが嫌」「悩み抜いて、ついに答えが出たときの快感がたまらない」という知的好奇心に満ちあふれた子ども。絶対にわかってやるぞ!というガッツあふれる子ども。つまり、高学欲ゆえに高学力になるパターンです。
高学力の生徒の第二類型は、「人生を自分の手で切り開くためには学力は絶対必要だ」「何だかんだ言っても世の中は学歴がものを言う」「賢い自分でいたいし、周囲の期待に答えたい」という、知的好奇心というよりかは、高得点好きなゆえに高学力を勝ち取るパターンです。
両者の違いを掘り下げてみると、例えば・・・第一類型の生徒は結果にたどり着くまでのプロセス(試行錯誤)を重視するが、第二類型の生徒はその先の結果(結論)を早く知りたがる。理科の実験で上手くいくかとワクワクしながらやる子は第一類型。実験なんかしなくても教科書に書いてあるその結果を覚えればいいと考えるのが第二類型の子です。
第一類型の生徒には塾通いの子が少なく、第二類型の生徒はほぼ塾通いをしている(塾で点取りテクニックを身に付ける)。これについては長年見たところ、他者(塾)に頼らず「自ら学び取る」姿勢を持った第一類型の子の方が、結果的に「後(あと)伸び=受験直前の猛烈な追い上げ」をするようです。
第一類型は中間・期末考査前もさほど普段と変わらない家庭学習(時には突然気になった昆虫の生態について〔試験勉強そっちのけで〕調査し始めたりする。←実話です)であるのに対して、第二類型は綿密に計画を立て普段以上の勉強量をもって考査を「攻略する」。
第一類型は得点や学年順位、偏差値をさほど気にしないが、間違えた箇所を自己分析し、解答中の自分の思考回路を追確認する。第二類型は得点その他のデータを重視し、間違えた箇所を反復練習によってつぶしていく。
よって、第二類型の生徒は、現場の教師からすると、君は「学ぶこと」より「高得点であること」の方が好きなんだね、という感じなのです。(本人には言えませんけどね。)
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